黒い塀
(「僕たちの絆」改題 --- 月刊カドカワ掲載)

■どうしていまさらこんな話をするつもりになったのかよく判りません。でも、みんなで決めました。僕たちみんながどうしてもお話したいことがあるんです。

■僕たちの住んでいる家は瀬戸内海に面した小さな城下町にあります。蔵町という名のこの町は、昔、お城の米蔵があった所だそうで、その米蔵がそのまま棟割り長屋になったのが僕たちの住んでいる家なんです。ですから僕たちの住んでいる家は、昔はとっても大切な、それはそれは大切な所だったのです。
■大きな造り酒屋の角を右に折れると、その先は袋小路になっています。左側には僕たちの六軒の家が並び(正確には細長い一軒の家なのですが)右側には造り酒屋の背の高い黒塀が突き当たりまで続いています。幼かった僕たちにとってその黒塀はずいぶんと高く、僕たちの家すべてに被いかぶさるように威圧的で、とても垂直に立っているとは思えませんでした。そして僕たちみんな其所で生まれて育ち、其所は僕たちにとって世界のすべて、スポットライトを浴びて立つ舞台だったのです。
■その造り酒屋がある場所にも、昔は米蔵が立ち並んでいたそうですが、なんでも明治のはじめに伏見の方から出てきた先々代だか先々々代がこの地に根をおろしたそうです。
■主人の顔は店先ではほとんど見ることができず、その頃はすでに息子夫婦が店をまかされていました。噂では店を含めた南側の屋敷には息子夫婦が、そして庭をはさんだ北側の屋敷には老夫婦と十七、八の娘が住んでいるということでした。けれどもその頃僕たちには、高い黒塀が邪魔をして、屋敷がふたつに分かれていることも判りませんでした。とにかくその黒塀のむこう側のことが、僕たちの最大の興味であり、謎だったのです。
■黒塀の、路の突き当たりに近い辺りに、小さな出入り口がついていました。
やはり塀同様に黒く塗られているので、閉じているかぎりではそれと気づきにくいものでした。そして不思議なことに娘だけが、その出入り口を使っていたのです。息子夫婦はおろか、老夫婦がそこから出てきたのも入っていったのも、僕たちは見たことがありませんでした。たまに表で出会っても、この屋敷の人たちはぷいと横をむいてしまうので、きっと僕たちが嫌いだったに違いありません。ですから、それだけに妙にその娘、いえ、その人が気になっていたものでした。

■その日もその人は、青紫の日傘で顔を隠しながら、表通りから其所へ入ってきました。僕たちは家の前で面子をしていました。誰もはっきりとその人の顔を見たことはないのですが、とてもきれいな人だと兄ちゃんから聞いていました。
■僕たちからさほど離れていない所までくると「あらっ」と声をあげて、その人はかがみ込みました。僕たちは面子をもつ手を止めて、そっと脇の下から声の方を見ました。下駄の鼻緒が切れたようでした。足元を隠すように日傘をこちらにむけて置くと、その人はすっぽりとその中に入ってしまいました。そして、僕たちはその時はじめて、日傘の模様を正面から見たのです。中心は白く、外にむかうにつれてだんだんと青紫が濃くなっていく模様でした。「朝顔だ」と誰かが呟き、僕たちはみんなうなずきました。黒塀を背にひとつの大きな朝顔が咲いたようで、とてもとてもきれいでした。
■こよりで鼻緒を直しているんだな、と僕たちは想像しました。けれどもその人がすくっと立ち上がったのを見ると、両足」とも下駄をはいてませんでした。出入り口が近いのでずるを決めこんだようです。そして日傘をなおさらこちらにむけて、足袋のまま歩きだしました。
■僕たちはずっと見続けていました。
■その人は開き戸をあけて腰からすうっと入り、日傘はまさに朝顔がしぼむかのようにたたまれたのです。とても残念な気がしました。ところが、僕たちはついにその時、その人の顔を見ることができたのです。若草色の振り袖がとてもよく似合う、兄ちゃんの持っている少年雑誌の表紙にでてくるような美しい人でした。そして、その人も僕たちの視線に気がついたようで、少しためらったのちに戸を閉めました。
■黒塀が突然被いかぶさってくると思ったほどに、辺りから色彩が消えてしまいました。

■しばらくして、まだ僕たちが面子をしていると、ぎいっと音がして出入り口の戸があきました。僕たちはおやっという顔とあれっという顔を見合わせました。あの日傘の先が伸びてきて、静かに開きました。
「咲いたよ、ほら」と誰かが言いました。
■ところがどうでしょう。朝顔は表通りには行かずに、僕たちの方へむかってくるじゃありませんか。もちろん僕たちはその人と口をきいたことはありません。その人はいつも遠くにいる人でしたから。
■その人は僕たちのそばにくると日傘をあげて、僕たちひとりひとりに微笑みかけました。そして「さ、飴玉をあげましょうね」と言って、僕たちの手のひらに大きな飴玉をひとつずつのせてくれました。ああその時の優しい目といったら。全身をなにか柔らかいものでくるりくるりと巻かれていくようで、あれを陶酔というのでしょうか。あんな気持ちになったのははじめてでした。
「うふふ、お利口さんね」
■その人は僕たちの口の中に飴玉が入って、ほっぺが片方ずつふくらんだのを確かめると、すぐに立ちあがりました。僕たちはかがんだままその人を見あげて、それぞれがお利口さんの顔をしました。
■その人は僕たちの顔を見て満足そうにうなずくと、そのまま黒塀の中へ吸い込まれるように消えていきました。黒塀がまた被いかぶさってくるように感じました。そうなんです。その人がいる時だけは、その大きな黒塀も大人しくしていたのです。
■そしてその日から、僕たちみんな、その人の虜になってしまいました。大変な秘密を持ったような気がして、このことは親には内緒にしようと心に決めました。
■それから数ヶ月たちました。その人はあれっきり姿を見せず、どこか遠くへ嫁いだという噂が流れて、僕たちの心をえぐりました。けれども僕たちには信じられませんでした。だって僕たちに飴玉をくれたあの人は、あんなに優しい目をしていたんです。
■僕たちはその人に会いたくていろいろと考えました。店先から中をのぞき込んだり、学校から帰ると黒塀の前でわざと大きな声で遊んだり。けれども、とうとうその人は現われませんでした。
「僕たちのことなんか忘れちゃったんだ」
■誰もが考え、誰もが否定しょうとし、誰もが口にしなかった言葉を、ついに誰かが言いました。
■次の日の夜、サイレンが鳴り響いて、消防自動車が其所へ入ってきました。ぼやですんだのですが、黒塀が燃えたのです。もちろん不審火ですが、放火した犯人は判りませんでした。けれども僕たちは、犯人が僕たちの中にいることを知っていました。でも、それが誰であるかは誰も口にしませんでした。僕たちみんな考えていたことなのです。いいえ、ひょっとすると犯人に対する嫉妬だったかもしれません。
■消防署や警察がいろいろ調べにきましたが、結局あきらめて、ひとつの結論を置いていきました。それは、黒塀は今後問題なのでブロック塀に替えるように、ということでした。そうしてできたブロック塀は黒塀の半分ほどしか高さがなくて、僕たちにも中の様子が判るようになりました。
■どうしてこんな屋敷に興味があったんでしょうか。いままでの時間がむなしく思えました。あんな黒塀に
脅かされていたことが滑稽でした。そしてその人もそれほどの人ではなかった気がして、だんだんと僕たちの記憶から薄らいでいきました。

■思えばあの日飴玉をもらった時から、僕たちのひとつだった心は離ればなれになっていたのかもしれません。けれども僕たちは棟割り長屋に住む仲間です。ひとつにならなくてはなにもできないのです。ですからそのために、放火の犯人が僕たちみんなである、と自覚することに決めたのです。そう、あれから何年たったでしょうか。(景)